日语文学作品赏析:《河豚は毒魚か》
ふぐの美味うまさというものは実に断然たるものだ――と、私はいい切る。これを他に比せんとしても、これに優まさる何物をも発見し得ないからだ。
ふぐの美味さというものは、明石あかしだいが美味いの、ビフテキが美味いのという問題とは、てんで問題がちがう。調子の高いなまこやこのわたをもってきても駄目だめだ。すっぽんはどうだといってみても問題がちがう。フランスの鵞鳥がちょうの肝きもだろうが、蝸牛かたつむりだろうが、比較にならない。もとよりてんぷら、うなぎ、すしなど問題ではない。
無理かも知れぬが、試みに画家に例えるならば、栖鳳せいほうや大観たいかんの美味さではない。靫彦ゆきひこ、古径こけいでもない。芳崖ほうがい、雅邦がほうでもない。崋山かざん、竹田ちくでん、木米もくべいでもない。呉春ごしゅんあるいは応挙おうきょか。ノー。しからば大雅たいがか蕪村ぶそんか玉堂ぎょくどうか。まだまだ。では光琳こうりんか宗達そうたつか。なかなか。では元信もとのぶではどうだ、又兵衛またべえではどうだ。まだまだ。光悦こうえつか三阿弥さんあみか、それとも雪舟せっしゅうか。もっともっと。因陀羅いんだらか梁楷りょうかいか。大分だいぶ近づいたが、さらにさらに進むべきだ。然しからば白鳳はくほうか天平てんぴょうか推古すいこか。それそれ、すなわち推古だ。推古仏。法隆寺の壁画。それでよい。ふぐの味を絵画彫刻でいうならば、まさにその辺あたりだ。
しかし、絵をにわかに解することは、ちょっと容易ではないが、ふぐのほうはたべものだけに、また、わずかな金で得られるだけに、三、四度もつづけて食うと、ようやく親しみを覚えてくる。そして後を引いてくる。ふぐを食わずにはいられなくなる。この点は酒、タバコに似ている。
ひとたびふぐを前にしては、明石だいの刺身さしみも、おこぜのちりも変哲へんてつもないことになってしまい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されてくる。しかも、ふぐの味は、山におけるわらびのようで、その美味さは表現し難がたい、というふぐにも、もちろん美味い不味まずいがいろいろあるが、私のいっているのは、いわゆる下関しものせきのふぐの上等品のことである。いやふぐそのものである。
ふぐ汁や鯛たいもあるのに無分別むふんべつ
ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、なにかで斃たおれる失態は、たくさんの例がある。無知と半可通はんかつうに与えられた宿命だ。
それでなくても、誰だってなにかで死ぬんだ。好きな道を歩んで死ぬ、それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝ゆくものは逝く。同じ死ぬにしても、ふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことをいうものもあるが、そんなことはどうでもいい。
芭蕉ばしょうという人、よほど常識的なところばかりを生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛たいもあるのに無分別」なんていうと、たいはふぐの代用品になれる資格があるかにも聞え、また、たいはふぐ以上に美味うまいものであるかにも聞える。所詮しょせん、たいはふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。小生しょうせいなどから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句はなんとしても不可解だ。たいである以上、いかなるたいであっても、ふぐに比さるべきものでないと私は断言する。ぜんぜんちがうのだ。ふぐの魅力、それは絶対的なもので、他の何物をもってしても及ぶところではない。ふぐの特質は、こんな一片のシャレで葬ほうむり去られるものではなかろう。ふぐの味の特質は、もっともっと吟味ぎんみされるべきだと私は考える。
それだからといって、なんでもかでも、皆の者ども食えとはいわない。いやなものはいやでいい。ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に徴ちょうすると、その多くが意気地いくじなしで、インテリ風で、秀才型で、その実、気の利きいた人間でない場合が多い。そこが常識家の非常識であるともいえる。
死なんていうものは、もともと宿命的に決定されているものだ。いたずらに死に恐怖を感ずるのは、常識至らずして、未だ人生を悟らないからではないか。
さて、このふぐという奴やつ、猛毒魚だというので、人を撃ち、人を恐れ戦おののかしめているが、それがためにふぐの存在は、古来広く鳴り響き、人の好奇心も動かされている。しかし、人間の知能の前には毒魚も征服されてしまった。
人間はふぐの有毒部分を取り除き、天下の美味を誇る部分をのみ、危惧きぐなく舌に運ぶことを発見したのだ。東京を一例に挙げてみても、今やふぐは味覚の王者として君臨し、群魚の美味など、ものの数でなからしめた。ためにふぐ料理専門の料理店は頓とみに増加し、社用族によって占領されている形である。関西ならば、サラリーマンも常連も軒先で楽しみ得るが、東京はお手軽にいかない怨うらみがある。下関しものせきから運ばれるふぐは、東京における最高位の魚価をもっている。
この価格も一流料理屋では、もとより問題ではない。のれんを誇った料理の老舗しにせも、「ふぐは扱いません」などとはいっておられず、我も我もとふぐ料理の看板を上げつつあるのが、きょうこのごろの料理屋風景である。しかし、私はこの実情を憂うれうるものではない。否いな、むしろ推奨したいひとりである。
従来は、無知なるが故ゆえに恐れ、無知なるが故に恵まれず、無知なるが故に斃たおれ、不見識にもこの毒魚を征服する道を知らず、この海産、日本周辺に充満する天下の美味を顧かえりみなかったのである。今もって無知なる当局の取締方針など、このまま無責任に放置せず、あり余るこの魚族を有毒との理由から、むやみと放棄し来きたった過去の無定見むていけんを反省し、さらにさらに研究して、ふぐの存在を充分有意義ならしめたいと私は望んでいる。
ふぐは果して毒魚だろうか。中毒する恐れがあるかないか。ふぐを料理し、好んで食った私の経験からすると、ふぐには決して中毒しないといいたい。
今を去る十五、六年前かと思うが、確か「大阪毎日新聞」に次のような有益な記事が掲載されていた。それを切り抜いて、ご紹介する。九州帝大医学部福田得志博士が中心になり、過去七年間、この問題を検討した結果である。
以下は同博士の話。
「私は過去七年間、河豚ふぐ毒の問題を再検討して、次の毒力表を得た。
表中猛とあるのは、猛毒で十グラムまでは致死的ならず、弱は弱毒で百グラムまでは致死的でなく、無は千グラムまでは致死的でないことを意味する。この毒力は一つの種類の河豚数十尾を検した中の最強の毒力です」
□
これによっても、ふぐの肉はいかなる種類のふぐでも無毒とされている。卵巣と肝臓、腸とを食わなければ無毒だといっている。私もその通りだと思う。要するに、猛毒といっても、肉にあるのではないから都合よくできていて、解明はすこぶる簡単だ。要は血液に遠ざかることである。わずかに滲にじみ出る血液くらいでは致死量に至らないようだ。むしろ醍醐味だいごみとなって、美味の働きをしているのかも知れない。いずれにしても、肉を生身なまみで食うのが一番美味うまいのだから、素人しろうとは皮だの腸だのは食わなくてもよい。しかし、頭肉、口唇こうしん、雄魚の白子しらこは美味いから、ちりにして味わうべきだ。下関しものせきで鮮度の高い奴やつを腸抜わたぬきにして、飛行便で送ってくるから、これなら万よろずまちがいないはずだ。
ふぐをこわがったのは昔のことだ。それは一にふぐ料理の方法が研究されていなかったからである。現在では、ふぐ屋においてふぐを食って死ぬことはない。このようにふぐを安心して食える時代が来ても、ふぐを恐ろしがることは、全く無知の致すところだと思う。
にもかかわらず、今なお衛生当局の無知は、ふぐ料理を有毒と決め、各県各区勝手な取締りをおこなっている。よしんば取締りを行うにしても、よろしく研究の上、この天与てんよの美味を生かすように配慮願いたいものである。
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